「今すぐ帰って。帰らないなら警察呼ぶから」
玄関の向こうで、娘の声が硬く響いた。
東雲真紀、六十三歳。二十年かけて貯めた二千万円を、この家の頭金として渡した私が、その家の前で通報される側として立ち尽くしていた。
門の横には、新居祝いの花がまだ並んでいた。娘の夫・岸本健太の勤め先、娘の友人たちの名前。その中に、私の名前はなかった。
私は肩にかけていた古い紙袋を持ち直した。茶色く焼けた持ち手が、指に細く食い込む。袋の隅には、もういない夫の字で、私の名前が小さく書かれていた。
警察を呼ばれるほどのことをした覚えはない。
ただ、孫のひなの七歳の誕生日と新居祝いを兼ねた食事会に呼ばれ、少し早めに来て台所を手伝おうとしただけだった。
朝五時から筑前煮とだし巻き卵を作った。どちらも、ひなが好きだと娘が前に言っていたからだ。電車を二度乗り継ぎ、冷めないように包んで運んできた。
けれど、玄関を開けた娘の第一声は、料理への言葉ではなかった。
「その服、やめてくれない? 写真に映るから」
私は胸元を見下ろした。黄色のワンピースに薄い灰色のカーディガン。高いものではないが、去年、町内会の集まりのために買った、私なりのよそ行きだった。
何も言わず、私はカーディガンを脱いで紙袋の上に畳んだ。
新居の中は、新しい木の匂いと甘いクリームの匂いで満ちていた。白い壁、広い窓、床暖房。娘が小さい頃、広告を見ながら「いつかこんな家に住みたい」と言ったことがある。
狭い団地の食卓でその言葉を聞きながら、私は味噌汁をよそっていた。あの時は「夢みたいだね」と笑った。
まさか、その夢の頭金を、私の老後資金から出すことになるとは思わなかった。
台所へ行き、私は手を洗った。持ってきた煮物を器に移そうとした時、娘が後ろから言った。
「触らないで。油の匂いがつくから」
私は手を止めた。
何に匂いがつくのか、一瞬わからなかった。娘は鍋を見ることもなく、冷蔵庫の横を指した。
「それ、後で見るから。とりあえず隅に置いといて」
その「後で」という言葉の中に、食卓へ出す気のなさが透けていた。
私は鍋を抱えたまま、黙って冷蔵庫の横に置いた。
娘はスマートフォンを縦に構え、部屋の飾りを何枚も撮っていた。ひなの名前を入れた風船、数字の七のキャンドル、薄桃色のテーブルクロス。写真に映るものだけが、今日は大事なのだと、その背中が語っていた。
私は昔から、写真に写るのが苦手だった。
夫が生きていた頃、旅行に連れて行ってもらったのは一度だけだった。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=gVavYReAaT0&pp=0gcJCQMLAYcqIYzv,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]