男性は、声を荒げなかった。
でも、その一言はかなり重かった。
「その子たち、さっき運転手さんに言われて前に座ったんですよ」
女性の指が、スマホの画面の上で止まった。
私はそこで初めて、前の席の小学生2人をちゃんと見た。
片方の子はランドセルを膝に置いたまま、少し前かがみになっていた。
もう片方の子が、何度も小声で「大丈夫?」と聞いている。
ただ騒いでいる子たちではなかった。
むしろ、かなり我慢しているように見えた。
バスが少し揺れたとき、前かがみの子が口元を押さえた。
すると運転手さんがミラー越しに気づいて、
「次の停留所で一度止めますね。無理しなくていいですよ」
とマイクを使わず、前のほうにだけ聞こえる声で言った。
その瞬間、女性は小さく舌打ちした。
「だからって優先席みたいなところに子どもが座るのはねえ」
私は耳を疑った。
いや、今それを言う?
体調が悪そうな子がいて、運転手さんも気にしていて、隣の子もずっと支えている。
それなのに、女性が見ていたのはそこではなく、
“子どもが座っている”という一点だけだった。
男性がもう一度言った。
「注意したいなら、まず本人に言えばいいでしょう。ネットに上げる必要ありますか」
女性は急に声を大きくした。
「私はただ、最近の子どものマナーを言ってるだけです」
その言い方で、車内の視線が一気に女性へ向いた。
前にいた別の乗客が、静かに言った。
「マナーを言う人が、他人の子を勝手に撮るんですか」
女性は返せなかった。
それでもスマホをしまわない。
停留所に着くと、運転手さんが安全確認をしてから席を立った。
そして前の小学生に声をかけた。
「おうちの人に連絡できそう?ここで少し待つ?」
その子は小さくうなずいた。
隣の子が、ほっとした顔でランドセルから連絡帳みたいなものを出していた。
その様子を見て、私はもう我慢できなくなった。
「さっき撮ってましたよね。消したほうがいいと思います」
女性は私をにらんで、
「あなたに関係ないでしょ」
と言った。
でも関係ないで終わらせたら、こういうことは何回でも起きる。
その場にいた男性が運転手さんに事情を説明した。
運転手さんは女性に近づき、かなり落ち着いた声で言った。
「お客様。車内で他のお客様を無断で撮影し、投稿する行為はお控えください。特にお子さんの場合は、保護者の方にも関わることです」
女性はそこでやっと、少しだけ焦った顔をした。
「投稿なんてしてません」
そう言いながら、画面を伏せた。
でも、私の横にいた若い女性が小さく言った。
「もう流れてますよ。それ」
車内がざわっとした。
その若い女性のスマホには、さっきの小学生の後ろ姿と、ひどい書き方の文章が映っていた。
顔ははっきり写っていなくても、ランドセル、服、バスの中。
知っている人が見れば分かってしまう。
運転手さんの表情が少し硬くなった。
「削除してください。今、この場でお願いします」
女性はしばらく黙っていたが、周りの視線に耐えられなくなったのか、画面を操作し始めた。
「大げさね……」
そうつぶやいたけど、誰も味方しなかった。
削除が終わったあと、運転手さんは小学生のほうに戻った。
「大丈夫。ちゃんと待ってるからね」
その声が本当に優しかった。
数分後、近くに住んでいるらしい保護者が停留所まで来た。
前かがみだった子は、少し涙目になりながら頭を下げていた。
隣の子も一緒にぺこっと頭を下げた。
そのとき、さっき女性に注意した男性が、子どもたちに向かって言った。
「何も悪いことしてないよ。ちゃんと助け合ってて偉かったよ」
それを聞いた子が、やっと少し笑った。
女性はその間、ずっと窓の外を見ていた。
あれだけ「常識」を語っていた人が、最後まで子どもには謝らなかった。
でも降りる直前、運転手さんが一言だけ添えた。
「子どもを守るのも、大人のマナーです」
女性は振り返らなかった。
ただ、さっきまで握りしめていたスマホを、バッグの奥に押し込んでいた。
私はその姿を見て思った。
本当に見られて困る行動をしていたのは、
小学生ではなく、大人のほうだった。
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