彼の手が伸びた瞬間、
私は気づいていた。
偶然じゃない。
電車の揺れでもない。
“触った”。
はっきりと。
緑のワンピースを着た彼女は、
窓側に体を寄せていた。
逃げ場がない姿勢だった。
男は笑っていた。
酒の匂いが、車内の空気を濁らせていた。
私はスマホを見ていた。
画面は黒いまま。
三年前のことを思い出していた。
同じような帰宅ラッシュ。
同じような距離感。
同じような、触れられ方。
「やめてください」
あのとき、私も言った。
でも、誰も立たなかった。
誰も。
彼女が言った。
「やめてください」
声が震えていた。
男は手を止めなかった。
むしろ、ゆっくり肩に滑らせた。
「外国人だろ?わかんないって」
笑いながら。
その一言で、
私の中で何かが切れた。
三年前、
私は“迷惑をかけたくない側”だった。
騒ぎにしたくない。
誤解されたくない。
我慢すれば済む。
そう思って、黙った。
その沈黙が、
あの男たちを調子に乗らせた。
目の前の彼女は、
きっと今、同じ計算をしている。
助けてほしい。
でも、怖い。
でも、目立ちたくない。
私は立った。
足は震えていた。
正直、怖かった。
でも、それよりも
三年前の自分にもう一度裏切られるほうが嫌だった。
「手を離してください。」
車内が静まった。
男が振り向く。
目が赤い。
「関係ないだろ。」
「ANAの社員だぞ、俺。」
誇らしげに言った。
制服。
ネクタイ。
自信満々の顔。
あの瞬間、私は思った。
“だから何?”
ANAだろうが誰だろうが、
触っていい理由にはならない。
「じゃあ、部署は?」
後ろから声がした。
振り向くと、
スーツ姿の女性が立っていた。
静かな目。
「私はANAの運航部です。」
空気が変わった。
「その制服、肩章違いますよ。」
「うちの規定に、三本時計は禁止されてます。」
車内にざわめき。
男の顔色が変わる。
「うるせえ!」
でも声はもう強くなかった。
さっきまでの威圧感は消えていた。
彼は一歩下がった。
二歩、下がった。
さっきまで
彼女を追い詰めていた男が、
今度は視線から逃げていた。
電車が駅に入る。
ドアが開く。
彼はそのまま降りた。
振り向かなかった。
静寂。
彼女はまだ震えていた。
私は何も言えなかった。
ただ思った。
三年前、
あの車両に、今日の私がいたらよかったのに、と。
あのときの私は、
ずっと自分を責めていた。
「なんで声を出せなかったんだろう。」
でも違う。
本当は、
“周りが黙っていたこと”のほうが怖かった。
今日、わかった。
一人が立てば、空気は変わる。
肩書きは、免罪符じゃない。
ANAだろうが、会社員だろうが、
酔っていようが、
触っていい理由にはならない。
そして、
見て見ぬふりをする理由にもならない。
私はヒーローじゃない。
ただ、
もう二度と
あのときの自分を繰り返したくなかっただけ。
もし、次に同じ場面を見たら。
あなたは、どうする?
私は、もう迷わない。
沈黙は、加担だ。
私は、立つ。